博士の過剰な愛情
また彼はいかにして女戦闘員を愛するのをやめて心配するふりをするようになったのか

前回までのあらすじ

　南北両国が水面下で手を握り日本壊滅のために設立した悪の秘密結社「ＫＥＤО」。そのＫＥＤОによって父を殺された奄美大学ワンダーフォーゲル部所属の大学生である大神圭助は、ひょんなことから得た不思議な武器を手にＫＥＤОに孤独な戦いを挑むのであった。

Ⅰ

久しぶりの休日。
　言語不明瞭な指導教官、慳貪なバイト先店長、そしてＫＥＤОの陰謀からも解放される休息のひととき。その貴重な時間を使って大神圭助は趣味の登山に出かけていた。
　天狗山。かつてはＡ郡とＦ市を隔てる深山であったが、今はトンネルの開通によって両地域は直結している。そのかわり、これまで両地域を細々とつないでいた天狗山越えの県道は廃道となり、登山愛好家にとって隠れた穴場になっていた。
　翌日以降に支障を来たさぬよう、日帰りのちょっとした小登山にするつもりであった。登山というよりも家族ハイキングといった程度であろうか。そのため、大神の装備は軽かったのだが、その手にはハイキングにしてはいささか大袈裟なピッケルがしっかりと握られていた。
　ともかく、彼は黙々と廃道を歩いた。廃道とはいえ、舗装道路である。埃っぽいアスファルトからの照り返しにより、彼はいつもより多くの汗をかいていた。そして水筒の中身は彼の想像以上の早さで減っていった。
「これで最後か……、ん？」
　水筒から最後の一口をあおったとき、彼の視線は一軒の家を捉えていた。山中のあばら家ではなく、立派な山荘である。その山荘には電線が通じており、いまだ人が住んでいそうな気配があった。あの家で水を厄介になろう、大神はそう思った。

Ⅱ

「メグミさん、見てください。実験は成功ですよ。これでようやくこの仕事にも一区切りがつくんですよ」
　そう言って青年小暮はポコポコと沸き立つ液体の入ったフラスコを助手の蜂谷メグミに見せた。彼は自分の研究費用を賄うために企業から研究依頼を受けている。今彼が取り組んでいるのは、大手クリーニング企業から依頼された強力洗剤の開発であった。
「博士、遂に完成したのですね」
　小暮と同じく白衣姿である蜂谷メグミは、机の上に無造作に広げられているノートを手に取ろうとした。それは洗剤の化学式が書かれた小暮の研究ノートである。
　だが、小暮の手がさっと動いて彼女に先んじた。
「この洗剤はまだ完成していませんよ。今のままではある特定の洗剤と混ざったときに、極めて強力な毒ガスが発生してしまうんです。この点を解決しない限りは……」
　と彼がそこまで言ったとき、白衣の助手がフフフと不敵に笑った。小暮は訝しげな表情で彼女の様子を窺う。
「メグミさん、僕はおかしいことを言ったつもりは……」
「博士、これはこれで十分に立派な発明です。我々が必要なのは洗剤などではなく、強力な毒ガスなのですから……」
「何だって！」
　驚く小暮を尻目に、助手はその白衣をばっと勢いよく脱ぎ捨てた。その次の瞬間、青年小暮は自分の目を疑った。彼が見たものは異形に変じた助手の姿であったのだ。
「メ、メグミ、さん？」
　小暮独立研究所の助手こと蜂谷メグミの姿は見るからに怪しく妖しく変じていた。黒いベレー帽に黒いレオタードと黒いマント。そしてレオタードの下に穿いているタイツもまた黒い。ただし、全身黒尽くめなのではなく、マントの裏地やベルト、手袋、ブーツなどがまばゆいばかりの真紅であり、黒一色で単調になりがちな全体に対してけばけばしい変化をつけている。特にベルトはそのバックル部に髑髏を模した禍々しい飾りがついており、それが彼女の怪しさを一層際立たせていた。また、変化したのは服装だけではなかった。彼女の顔にはいつの間にやら派手めのメイクが施されていて、とりわけ濃く塗られたアイシャドーが彼女の表情を強気そうなものにしていた。
「イル、小暮博士。その研究ノートをこっちへ寄越すんだ。さもないと……」
　そう言って彼女はナイフをちらつかせた。小暮はそのナイフの刃先と彼女の顔とを交互に見比べながら後ずさる。目の前の女は小暮の知っている蜂谷メグミと同じ声をしていたが、それ以外のすべてが違っていた。
「さあ、早くそのノートを……」
　彼女のナイフが小暮の顎のほんの少し先にまで迫ってくる。身の危険を感じた小暮は説得を諦めてノートを差し出した。
　だが、依然としてナイフは小暮に突きつけられたままである。女は冷たく笑った。
「フフッ……。博士、ではあらためて死んでもらうよ。あとで毒ガスの解毒剤なんか開発されたら厄介だから……」
「そ、そんな……、メグミさん、あなた自分のしていることが……」
　思ってもいなかった展開にうろたえた小暮は後ろを顧みることなくじりじりと後ずさった。だが、ナイフもまた同じようにじりじりと小暮の咽喉元へと迫る。数秒後、後ずさる小暮の背中が壁に当たった。
　――もう駄目だ。
　観念した小暮の膝から力が抜けていく。
　そのとき、研究室のドアが不意に開いた。小暮と女の視線がそちらへと注がれる。
「いや、すいませんね。ドアホンを押しても反応が無いし、しかも鍵が開いていたから勝手に……」
　少し開いたドアの隙間から謎の侵入者が言い訳をしながら顔をのぞかせたとき、女が驚いたように叫んだ。
「き、貴様は、大神圭助！どうしてここに……」
　そう、この謎の侵入者こそ、山荘で水をもらおうとした大神圭助なのである。彼もまた女の黒尽くめの姿を見ると叫んだ。
「お前はＫＥＤОの女工作員！」
　大神は開きかけていたドアをさらに蹴破って室内に躍り込んだ。そして、手にしているピッケルをまるで刀剣のように構えると、女に向かって啖呵を切る。
「さあ、この悪の手先め、お前たちが何を企んでいるかは知らんが、その陰謀、この俺が必ず阻止してみせる！」
　今度は女がうろたえる番だった。
「お、おのれ、思わぬところで邪魔が入ったか！」
　忌々しげにそう言うと、彼女は突然奇声を発した。
「イルイル、イルイル！」
　すると、その声に応じるかのように窓ガラスが割れた。それは超高音の奇声によって割れたのではなく、外から二人の曲者がガラスを破って飛び込んできたのである。曲者たちとは、つまり女の同類、ＫＥＤОの女工作員であった。
「大神、こうなったら、まずお前から片付けてやる！」
　三人の女工作員は協力して大神を包囲しようとする。だが、大神はまったく動じる素振りを見せなかった。
「ふッ、お前たちが何人集まろうと、この俺を倒すことなどできん！」
　三方から同時に襲いかかってくる女工作員。しかし、大神は強かった。彼の強さの秘密はピッケルにある。女工作員の武器であるナイフに対し、そのアウトレンジから攻撃できるピッケルは圧倒的に有利であった。女たちの残忍な刃が届く前に、彼女らはピッケルによって叩きのめされてしまうのである。たちまち二人が脳天にピッケルの直撃を受けて倒れた。
「あ、あがぁ！」
　二人の女工作員がベレー帽の頭を押さえながらがっくりと膝から崩れ落ちる。
「お、おのれぇ！」
　応援に呼んだ新手はあっさりと倒されてしまった。そこで、ただ一人生き残った工作員メグミはとりあえず小暮だけでも片付けておこうとナイフを小暮に向けた。
　だが、そのとき大神はすかさずピッケル先端の両翼を外して叫んだ。
「ピッケルブーメラン！」
　彼の持つピッケルは国連大学工学部で極秘に開発された次世代型白兵装備である。用途に応じていろいろな形態に変化するのだ。圭助の父親である大神圭太郎は工学部に材料を納入する業者という立場にあった。圭助はそうした父圭太郎の生前の縁故を頼ってその武器を手に入れたのだった。
　さて、そんなピッケルの由来はともかくとして、カーブを描きながら飛んでいくブーメラン。ブーメランは工作員メグミの両の手首を直撃してナイフと研究ノートとを払い落とすと、元の如く彼の手に収まった。
「お、おのれ、よくも……、こうなったらせめてノートだけでも……」
　メグミはノートを拾い上げ窓から逃げようとする。だが、彼女が窓のサッシに足をかけたとき、ブーメランが再び一閃して彼女の臀部を撃った。
「ぐあっ！」
　工作員メグミは室内に転げ落ちる。一方、ノートは外へと落ちた。
「イルイル！」
　そのとき、外からあの奇声が聞こえた。別の女工作員が外の茂みの中に潜んでいたのだ。この女工作員はノートを拾い上げると茂みの向こうに隠してあったバイクに跨って逃げて行った。
「外にもう一人潜んでいたとは……」
　戻ってきたブーメランを見事に受けとめながら、大神は吐き捨てるように言った。

Ⅲ

　親族たちからの過剰な期待。学内の複雑怪奇な人間関係。自分の研究に対する周囲の無関心。
　そうしたものから逃避するため、青年小暮は勤務先の大学付属研究所を飛び出してこの山荘に引き籠もっているのだった。山荘の所有者は彼を溺愛しつづけた祖父である。その祖父もまた科学者であった。余談だが、旧軍のために毒ガスを開発していたという。
「で、そこへこの女工作員、自称蜂谷メグミがやってきたというわけですか」
　大神は先ほどより小暮から事情を聞いていた。
　床の上にだらしなくだらりとのびている女工作員。大神はその傍らに立って彼女を見下ろしていた。片や小暮は座り込んで恐る恐る彼女に触れている。端から見れば、殺人事件の現場検証のようだった。
「おそらく、奴らは小暮博士が図らずも作り出してしまった毒ガスを使って日本人の皆殺しを企んでいるに違いない……」
　大神はそう言ってみたものの、小暮は全く意に介していないようだった。先ほどまで小暮は「人殺し、告訴してやる！」と泣き喚いて大神を非難していたのである。「死んではいない。気絶しているだけですよ」と大神は何度も説明してようやく小暮を正気に戻したのであった。
「メグミさんはどうして私を……」
　小暮は不意に立ち上がると大神に尋ねた。大神は大神なりにＫＥＤОについて説明していたつもりだったが、小暮は何も聞いていなかったようだ。
「しかたないですね。もう一度説明しますから、しっかり聞いてくださいよ」
　そう言って大神はＫＥＤОについて話してやった。南北両国が水面下で手を握り云々、ということだけでなく、ＫＥＤОの女工作員がどのように製造されるのかについてもである。
　ＫＥＤОの女工作員たちは日本壊滅というＫＥＤОの悪の思想に共鳴したか、あるいは月給百万円という悪の囁きに誘われて入団したような悪者たちを改造して造られる。しかも、その入団の際には善良な市民を少なくとも一人は殴殺せよという高いハードルの試験が課せられているため、入団者たちの心の悪さは筋金入りである。悪者の悪者による悪者のための秘密結社、それがＫＥＤОなのであった。
　しかし、一通りの話を聞いても小暮は納得しなかった。
「そんなの嘘だっ！僕は彼女をここの助手に採用するとき、しっかりと履歴書と住民票の写しを見たんですよ。彼女は人間で、しかも日本国民だ。それが得体の知れない集団の改造人間だなんて！」
「奴らの科学力では書類の偽造なんて簡単なんですよ。役所の戸籍係を一瞬にして洗脳してしまうんですから……」
　大神は再び小暮と口論することになってしまった。
　だが、そのとき、どこからかしゅわしゅわという安い手持ち花火のような音が聞こえてきた。小暮がその音のする方向を向くと、大神によって倒された二人の戦闘員の体から青白い炎が上がっている。
「大変だ、火事……」
　慌てて流し台へ水を汲みに行こうとする小暮。だが、大神がそれを止めた。
「火事にはならない。あの炎は冷たいんですよ。どういう仕組みなのか不明ですが、ＫＥＤОの工作員はああやって消滅していく。機密保持、あるいは口封じといったところですね。小暮博士、ちょうどいいから、じっくりと見ておくべきです。これが現実なんですよ」
　小暮は二人の女工作員が燃える様子を呆然と眺めていた。煙の出ない炎に包まれた彼女たちは次第に縮んでいき、そして急に黒くなると風化してさらさらとした砂になっていく。　こうした変化がすっかり終わると、小暮はさすがに科学者らしくその砂を調べようと近寄った。
「メグミさんもこうなるのですか……」
　砂粒をピンセットでおそるおそる摘みながら小暮は尋ねた。大神は「そうです」と言って頷く。
「一定以上のダメージを受けた工作員は今みたいに自然消滅する。人間で言うところの死ですよ」
「では、メグミさんもすぐに消えて……」
「いや、これはもう少し長生きしますよ。ダメージがそれほどじゃありません。少なくともアジトの場所を聞き出せるまで生きていてくれなければ困る」
　それを聞くと小暮はピンセットや砂粒を放り出して蜂谷メグミのところに戻った。そして仰向けで寝ている女工作員の両腋を抱え込んだ彼は、彼女の足のほうを持ち上げてくれるよう大神に頼んだ。
「お願いします。メグミさんをベッドに寝かせるんです！」
　大神は少しためらったが、その申し出に応じることにした。そうした方が訊問がやりやすいかもしれぬと考えたのである。二人が女工作員を持ち上げたとき、彼女のかぶっていたベレーが床に落ちた。だが、二人にそれを拾い上げる暇はなかった。

Ⅳ

「メグミさん……」
　小暮はベッドに横たわる女工作員を心配そうに覗き込んでいた。その横では大神がペンチ片手に何やら電熱線を細工している。ペンチも電熱線も、大神が勝手に研究室から持ち出したものであった。
　蜂谷メグミは住み込みでこの研究所に勤務していた。彼女の仕事は研究助手や営業事務だけでなく、生活力の稀薄な小暮青年の身の回りの世話もしていたと青年自身は語っていた。一方で青年は決して口にはしなかったが、彼はこの女工作員から性的奉仕も受けていたのではないかと大神は邪推している。
「さてと、」
　そう言って立ち上がった大神は部屋の隅に行って何かの電気コンセントを接続した。
「大神さん、何ですか、それは？」
「これでアジトの場所を聞き出すんですよ。奪われたノートを一刻も早く取り返さなければ大変なことになりますからね」
　ここでようやく小暮は大神の怪しげな行動に気付いた。大神は有り合わせの材料を利用して電流式の簡易訊問装置を作っていたのだ。
「そんなこと僕は許しませんよ。メグミさんに拷問だなんて！」
「あんたは悪の組織が毒ガスを製造しても良いと言うんですか！」
「いや、それは……。でも、もっと他に方法があるはずです」
　小暮は急に振り返るとベッドの女工作員に優しく語り掛けた。
「メグミさん、あのノートは今どこにあるのですか？」
　すると彼女はうっすらと開いている眼を小暮に向け、かすれがちな声で言った。
「イル、毒ガス製造は我らの悲願……」
「ほら、これがこいつらの正体ですよ。こいつらに何かを期待するのは無意味なことなんですよ。こいつらの暴力には暴力で答えるしかない」
　そう言って小暮の横に立った大神の手には赤く光り始めた電熱線があった。彼がそれを女工作員の太腿に押し当てようとしたとき、小暮は彼を突き飛ばしてそれを阻止した。
「小暮博士、何をするんですか！」
「それは僕の台詞です。これ以上メグミさんを苦しめるのなら、まずその前にこの僕を何とかしなさい。僕は絶対にあなたの横暴を阻止してみせる」
「小暮さん、あなたもわからない人だな……、いいですか、このままでは何の罪もない人たちが大勢犠……」
　と大神がそこまで言ったとき、急に女工作員が咳き込み始めた。ごぼごぼと湿った感じの重い咳である。それを見て大神は舌打ちした。
「まずいな、これも長くはない……」
「えっ！それはどういうことですか」
「ＫＥＤОの女工作員は二十四時間ごとにケドパー液という薬物を飲まないと死ぬんです。どうやらこれも期限切れが近いようだ」
「それは薬局に売っているんですか？」
「そんなことあるわけないじゃないですか！ケドパー液はＫＥＤОにしか作れない」
「そんな……、それじゃ、どうしたら……」
　小暮はしばらく思案していた。そして、突然晴れやかな表情になると、彼は大神にとって意外な提案をした。
「わかりました。僕はしばらくこの部屋から退出します。その間にあなたは為すべきことをしてください。ただし、悪者たちのアジトの場所が判明したら、ノートだけでなくケドパー液をできるだけたくさん持ち帰ってくると約束してください」
「小暮さん、あなた何を考えている！まさかこいつを飼うつもりじゃ……」
　大神は目の前の男の考えていることが信じられなかったが、男の返答はもっと信じられない内容だった。
「飼う？そんな、とんでもない。僕はこれからもメグミさんと一緒に暮らすだけですよ。ある程度のサンプルさえ手に入れば、それを分析してケドパー液を量産することも可能なはずです。さあ、大神さん、彼女から早く聞き出してくださいよ」
　小暮はうっすらと笑みを浮かべながら拷問を許可し、そして部屋を出ていった。

Ⅴ

　廃道決定に伴い閉鎖されたドライブイン。
　初めは頑強に拒絶していた女工作員であったが、大神が例の道具を持ち出して見せつけると、とうとうアジトの場所を吐いた。所詮は下級構成員である。戦闘力も大したことないが、意志の力もそれほどではなかった。
　大神は部屋を出て訊問が円満に終わったことを小暮に告げた。それから小暮に勧められるままに冷蔵庫の麦茶を一杯飲むと、件のピッケル片手に敵アジトへと向かっていった。　研究所には女工作員とそれを見守る小暮が残っている。女は大神によって両手両足をベッドの支柱に縛りつけられ、容易には逃げられないようになっていた。
「小暮さん、いいですか、絶対にロープを解いてはいけませんよ。この女工作員は重傷のふりをしているだけです。油断したら大変なことになりますからね。これは『かちかち山』と同じです。私はお爺さんであなたはお婆さん、そしてこの女は狸。そういうことですから」
　大神は去り際に何度も念を押していた。
　だが、女工作員が偽りの媚態を示したらどうなるであろうか。
「は、博士、お願いですから、この縄を解いてください。体が締めつけられて苦しいのです」
　大神が不在であることを知った彼女はかつての蜂谷メグミの口調で小暮に懇願した。これに対し、小暮は目を閉じ両手で耳を塞いでじっと耐えるしかなかった。
「メグミさん、ごめん。許して欲しい。僕は大神君から……」
「博士、あんな見ず知らずの赤の他人と、このわたし、いったいどちらを信じるというのですか？」
　どんなに強く耳を塞いでも女の声は忍び寄ってくる。小暮は思わず目を開けた。しかし、ベッドの上に横たわってもぞもぞと動いているのは、あの白衣姿の蜂谷メグミではなく、黒のレオタードとタイツを身にまとった悪の一味なのである。
　その差異に悩みながら、小暮はしばらく彼女を見つめていた。体に密着している黒のレオタード。そのせいで手に取るようにわかるボディライン。肉感的な太腿を黒タイツがぴっちりと調律している。そして、その黒タイツの細かい編目の奥から、彼女の柔肌の白が透けて見えた。
「こ、これは……」
　悪の表皮によって隠蔽されている色香。図らずもタイツの編目から漏れ出したそれは、他の健全なそれよりも何倍も輝いているように見えた。塩をかけた西瓜。卑俗な例を用いれば、そういうことなのかもしれなかった。
　このとき、彼の心の中で規制が一つ緩和された。
「メグミさん、僕はもうどうなっても構わない。大神君なんていう男のことなど、僕は知らない！」
　そう言って彼は縄を解きにかかった。女工作員がほくそ笑んでいるとも知らずにである。彼は縄の結び目に手をかけ、指を結び目の輪にこじ入れようとする。
　だが、どんなに奮闘してみても、小暮に縄を解くことはできなかった。
　アウトドア派で山男の大神はボーイスカウトみたいに縄の難しい結び方をいくつも知っていた。彼はそうした知識を駆使して滅多なことでは解けないようにしていたのである。片や小暮はそうしたことに疎く、また手先が器用でなかったから、どうすることもできなかった。刃物を使って縄を切ろうかとも考えたが、手元が狂って女にぶすりという事態を想定すると、とてもそんなことをする気にはならなかった。
「チッ、使えない奴……」
　本性を現した女工作員が舌打ちする。だが、小暮はそれを聞いて何だか申し訳ないような気がし、慌ててその場を取り繕おうとした。
「そうだ、メグミさん、冷蔵庫にチョコがある。それを食べましょう」
「いらん」
　女工作員は素っ気無くそう言うと、僅かに自由になる頭部をぷいっと反対側に向けてしまった。
　それから十秒が経過し、二十秒が経過する。
　小暮にしてみれば、気まずい沈黙である。
　それに耐えられない彼は無理にでも会話を続けようと考え、ある提案をした。
「メグミさん、大神君が帰ってくるまで、しりとりをして時間を潰しましょう。そうだ、それがいい！じゃあ、僕からいきますよ。うーん、そうだな、山、ヤマなんてどうでしょう？『ヤマ』ですよ。メグミさんは『ヤマ』の『マ』からです」
　しかし、女工作員は無言のままである。予想はしていたが、小暮は焦った。
「メグミさん、お願いしますよ。しりとりをやりましょうよ。以前のメグミさんだったら、それぐらい許容範囲の内だったじゃないですか！」
　そう言って小暮は女工作員の体を揺さぶった。手足をベッドの支柱に縛り付けられている女工作員は小暮が揺するたびに手足がきつく締められてしまう。女の表情に苦悶の色が浮かんだ。
「イル！い、痛い！わかった、わかったから、揺するな！」
「そうですか。では、しりとりをしてくれるんですね。それじゃあ、『マ』からですよ。マ」
　嬉々としてしりとりの履行を迫る小暮に対し、女工作員は憮然とした表情をしながら
「間引き」
と素っ気無く答えた。
「間引き、ですか。ならば次は『キ』ですね。そうだな、『キニーネ』なんてのはどうでしょう？」
　すると、間髪を入れず女工作員が淡々と
「ネクロフィリア」
と答える。
「アですか……、うーん、そうですね、『アムステルダム』なんてのはどうでしょう？」
「無差別爆撃」
「キ……、またキですか。『木下藤吉郎』なんて人がいましたね。そういえば……」
「鬱血」
「鬱血？メグミさん、答えるのが早いなあ。それじゃあ、僕は『ツクシ』です」
「死人に口なし」
「シ、えーと、『下高井戸』」
「毒ガス散布」
「はあ、毒ガス散布ですか……。何だか、メグミさんの答はどれもこれも気が滅入るようなものばかりですねぇ……」
　しりとりをやろうと自分から言い出し、そのうえ無理強いまでしておきながら、小暮はそれ以上しりとりをする気がなくなってしまった。
　彼は窓の外を眺めながら溜め息をついた。
「あーあ、大神君は遅いなあ。どこで油を売っているのだろう……」
　一方、ベッドの上では女工作員が不機嫌そうな顔で小暮を睨んでいた。
「イル！早く次を答えろ！」
　彼女は小暮にそう命じた。意外にと言うべきか、いかにもと言うべきか、勝ち負けにこだわる彼女なのであった。

Ⅵ

　廃道決定に伴い閉鎖されたドライブイン。
　その廃墟の下に新たに造られた地下室こそ、ＫＥＤО南西方面管区第十二アジトなのである。
「イル！」
　一人の女工作員が右手を掲げて挙手の礼をした。それがＫＥＤОの正式な敬礼なのだ。
「ムカデリラ様、管区本部からの通信によると、科学班の到着は二時間ほど遅れるようです。どうやら作戦指令書の書式に不備があり、そのせいで出発が遅れているようです」
　アジトの司令室にはこの女工作員のほかに、もう一人の女がいた。彼女はレオタードにタイツという工作員姿ではなく、紅い鎧を着用していた。より正確に言えば、紅い甲殻に覆われているといった風情であろうか。勿論、顔まで甲殻に覆われているわけではなく、首から上は一般工作員の如く怪しいメイクの女であることは言うまでもない。
　彼女こそ、ＫＥＤО悪女怪人軍団の一員、ムカデリラなのであった。
　ＫＥＤОという組織には独特の方針があって、実行部隊の指揮官たる怪人連のモチーフを歴史や神話上の女性に求めていた。このムカデリラもその一例で、彼女は旧約聖書に登場するペリシテ人の悪女デリラとムカデを合成して製造された怪人なのである。ただし、一般工作員同様、その素材が心根の悪い人間であることに変わりはない。ＫＥＤОに魅せられて入団した者の内、特に容貌と身体的能力に優れた者が女怪人に改造されるのであった。
「二時間だと？遅い、遅すぎる！本部は何を考えているのだ！」
　そう言って女怪人は手にしている扇に仕込んであるダーツを抜き取ると、それを秘書係の女工作員に投げつけた。
「痛っ！ムカデリラ様、いきなり何をなさるのですか！」
　秘書係は腕に深々と突き刺さったダーツを自分で引き抜いた。傷口から流れ出す体液がレオタードに染み込む。
　その様を見て女怪人は笑った。
「毒はないから安心おし」
　他の怪人連の例に漏れず、ムカデリラもまた冷酷かつ粗暴である。怒れば平気で部下たちに当たり、中には「ベレー帽のかぶり方が気取っていて気に喰わない」という理由で半殺しの目に遇った工作員もいる。それゆえ、彼女の下で働く工作員たちは常に戦々恐々としているのだが、その一方で上からの指示には絶対服従という鉄の掟を固く守って忠義を尽くしているのだった。
「それにしても、本部の官僚主義には困ったものだ。小暮の研究所に大神が現れたという未確認情報もある。せめてアジト防衛用の毒ガスさえ製造できれば、大神を瞬時にして返り討ちにできようものを。そして、わたしは中央管区へ返り咲き……」
　かつて彼女は「中央銀行金塊強奪作戦」を展開しようとして大神に阻止され、その懲戒処分として辺境の西南管区へ左遷されたのであった。彼女にとって大神圭助とは任務だけでなく私怨の対象でもあるのだ。大神に対する彼女の恨みは深かった。
「念のため、アジト周辺の警戒を厳重にしておけ」
　彼女がそう命じたときである。
　司令室に伝令係の女工作員が飛び込んできた。
「ムカデリラ様、大変です！大神の奇襲です！」
「何っ！すぐに監視モニターに表示しろ」
　その指示に従い、先ほどダーツを当てられた秘書係が怪我した腕を庇いながらリモコンのスイッチを入れた。司令室にある大型モニターに電源が入り、ドライブインの前にある大型駐車場の様子が映し出される。
　そこでは三名の警戒係が大神を迎え撃っていた。
　ピッケルを振るう大神。ナイフでそれに立ち向かう三人の女工作員たち。アジト防衛の前衛として彼女たちも必死であるが、まるで身体の一部のようにピッケルを扱う大神に対しては三倍の兵力といえど分が悪い。
　その様子を見て取ったムカデリラは伝令係に命じた。
「重装小隊を召集しろ！今度こそ大神の息の根を止めてやる」
「イル！了解」
　伝令係は挙手の敬礼をし、司令室から出て行った。
　重装小隊とは打倒大神のために新たに編成されたエリート部隊である。その隊員たちはＫＥＤО女工作員の中でも特に優秀な者が選抜されていた。彼女たちは大神のピッケルに対抗するために槍を装備し、またその扱いにも習熟している。他の一般工作員と外見的にも区別するため、真紅の鋭角的なアイマスクをつけているのが特徴的であった。
「大神め、今日が貴様の命日だ……」
　モニターを消すよう秘書係に命じた女怪人は、今日こそ勝利を確信するのであった。

Ⅶ

「進め、大神はすぐそこだ！」
　指揮官であるムカデリラに率いられ、六名からなる重装小隊がドライブインのドアから外へと飛び出した。
　だが、外の大駐車場に大神の姿はない。そのかわり、先ほどまで大神と戦っていたはずの警戒係の三人が折り重なるようにして倒れていた。
「しまった！遅かったか！」
　重装小隊の女工作員たちは折り重なる三人に駆け寄った。三人は三人ともぐったりとしている。重装小隊の一人が槍の石突で小突いてみるが、まったく反応がない。それどころか、いちばん下に敷かれている女工作員などは熱くない炎を上げて燃え始めた。
「おのれ、大神め、どこへ消え失せたか！」
　そう叫んで女怪人は辺りを見渡す。
　すると、そのとき男の笑い声が辺り一帯に響き渡った。
「ハハハハハ、小暮博士のノートは返してもらった！」
「何っ！」
　一同慌てて再度周囲を見回すと、何とドライブインの入口に大神が立っていた。その傍らには秘書係の女工作員が立っている。彼女は乱暴な上司に腹を立てて大神に寝返ったのではなく、司令室で研究ノートの見張りをしていたところを大神に襲われて捕らえられたのであった。大神は彼女から奪ったナイフを彼女の首に突きつけている。
「大神、いつの間に！」
　女怪人が叫ぶと、大神は捕虜にしていた秘書係を突き飛ばし、さらにその臀部を蹴って彼女を解放した。
「それはこいつにでも聞いてくれ」
　大神に臀部を蹴り飛ばされた秘書係はその衝撃で前のめりになって駐車場のアスファルトの上に倒れ込んだが、またすぐに起き上がってよろよろと上司のもとへ駆け寄った。彼女は上司の前に来ると、片膝を突いて跪き上司の尊顔を見上げた。戦闘で受けた痛みや捕虜になった屈辱感、そして上司の信頼に応えられなかった自責の念。そうしたことが積み重なり、秘書係の目からはぽろぽろと涙がこぼれていた。
「ム、ムカデリラ様、申し訳ありません。ムカデリラ様たちと入れ違いに大神が……、我々は必死になって戦ったのですが……」
　そこまで言いかけると、秘書係はよろけて地に手を突いた。そうすることでようやく姿勢を保っているのである。
　しかし、彼女の上司はそんな彼女の内情を全く斟酌することはなかった。凶悪な女怪人は傍らの槍工作員に命じた。
「目障りだ。この無様な奴を処刑しろ」
「イル！」
　右手を掲げて返事をした槍工作員は何の躊躇もなくその槍を一閃させた。秘書係の着ているレオタードの胸元が一文字に切り裂かれ、ニップレスをつけた彼女の乳房がぽろりと現れる。
「あ、ああっ！」
　秘書係は恥じらってその胸元を隠そうとしたが、槍工作員がそれを許さなかった。槍工作員は胸を隠そうとする秘書係の手を槍の穂先で払い除け、そしてその胸を突いた。秘書係は自らを貫く槍にすがって断末魔の叫びを上げる。
「イル、ぐうぇっっ……！」
　こうして秘書係は処刑された。処刑役の槍工作員は槍を引き抜き、そして支えを失って倒れた秘書係の着衣でその汚れた穂先を拭った。その傍からめらめらと冷たい炎が立ち始める。
「粛清か……、何度見ても嫌な光景だ」
　その炎を遠くから眺めながら大神は呟いた。
　――生きて虜囚の辱めを受けず、死して屍拾う者無し。
　ＫＥＤО工作員心得の一節である。この悪の組織はその末端構成員たちに無上の犠牲を要求していた。たとえ彼女らにその意志が無くとも、組織として強制するのだ。ＫＥＤОの工作員とは死ぬことが仕事のようなものである。おそらく小暮博士の望みは叶わぬだろう。大神はそう思った。
　燃え尽きた秘書係が灰になってアスファルトの上に散っていく。
　大神は身軽になるため背中のリュックサックを脱いで無造作に放り投げた。その中には奪い返したノートと略奪したケドパー液の缶が入っている。
「さて、いよいよ決戦だ……」
　ピッケルを握り締め、大きく足を踏み出す大神。彼の視線の先には槍を構えて戦闘態勢に移った悪の軍勢があった。
「大神、わたしの部下をずいぶんと可愛がってくれたようじゃないか。こそこそとネズミのように逃げまわっていれば長生きできたものを。そんなに死にたいのなら、望み通り殺してやる」
　ムカデリラはそう言って扇を振り、大神を指した。
「お前たち、やっておしまい！」
　その指示に合わせて槍工作員たちが駆け出した。彼女らは槍の穂先を連ねて大神へと突進する。身にまとうマントが風をはらんで翻り、まるで軍旗のようだった。
「イル！」
「イルイル！」
　大神は彼女たちによって取り囲まれた。一対六、しかも相手は精鋭部隊である。
　彼女たちの攻撃は苛烈であった。あちらからと思えばすぐにこちらから。六方から鋭い槍の突きを受け、さしもの大神もそのピッケルで彼女たちの攻撃を受け止めることしかできない。反撃など思いもよらぬことであった。
　その様を見てムカデリラは嗤った。
「ハハハハハ、大神、貴様もいよいよ最期だな」
　そう言って彼女は扇からダーツを抜き取ると、大神に向けてそれを投げつけた。
「この猛毒ダーツで地獄に落ちろ！」
　だが、大神は身を反らしてそれをかわしたのでダーツは大神の向こうにいた工作員の胸に当たった。
「イ、イル……」
　槍を捨て苦しみ出す工作員。ダーツの毒は神経に作用するものであったため、彼女は全身が麻痺して倒れた。ぴくぴくと震える四肢。じわじわと濡れ始める下腹。そのうち彼女は動かなくなると、静かに燃え始めた。
「おのれ、大神！小癪な真似を！」
　怒ったムカデリラはもっとたくさんのダーツを投げてやろうと思ったが、同様の展開で二十余名の工作員が自滅してしまった「中央銀行金塊強奪作戦」の失敗に鑑み、すんでのところで踏み止まった。
　さて、このように女怪人が怒ったり冷静になったりしている間にも大神の激闘は続いている。
「イル！大神、」
「イル！死ねッ」
　前と後ろから二人の工作員が同時に襲いかかってきた。二人とも昼も夜もない過酷な訓練を潜り抜けた猛者たちであり、その訓練の間に強固な同志愛も育んでいる。この二人の呼吸はまったく一致しており、大神といえどあわやその鋭鋒の餌食になるところであった。　だが、大神もまた敵との戦いを通じていくつもの修羅場や生き地獄を見てきた歴戦の兵である。そうやすやすと悪の刃に掛かることはない。彼は素早く身を反らせて前後から迫る槍をかわす。
　すると、真っ向から突き進む二本の槍はそのまま宙を交差し、あろうことか双方の槍の主をそれぞれ刺し貫いたのだった。
「イ、イル、サヤカ……」
「イル、アケミ……」
　息の合った二人はその最期も息が合っていた。彼女らは互いの名を呼び合いながら対になって倒れ、そして燃えていく。
　ムカデリラの誇る重装小隊はこうしてその人数を半分に減らした。
　だが、女怪人はまだ諦めていない。
「まだ勝機はある。散らばるな。一丸となって槍衾を作れ。そしてそのまま押し潰せ！」
　彼女の下知に従い工作員たちは一つに集まった。三本の槍が連なって大神に向けられる。
「イルイル！」
　しかし、それを見て大神は笑うのであった。
「笑止、有利な状況を捨てて自ら死地に飛び込むとは！」
「何ッ！」
　焦る工作員たちを尻目に大神はピッケルを逆さに構えて叫んだ。
「ピッケルザイル！」
　するとピッケルの柄の先端からロープが飛び出した。するすると延びたロープは、生きているかのように工作員三人組に絡みつく。このとき、女怪人の指示に従って一ヶ所に固まっていたことが彼女たちに災いした。彼女ら三人は一つの束となってコイルのように縛り上げられてしまったのである。まるで長大な蛇が獲物に巻きついて締め上げようとするかのような光景であった。
　ロープによってぐるぐる巻きにされた三人は呻吟する。
「お、おのれ、大神、よくもっ！」
「イル！か、体が締めつけられて……」
「む、むぎゅう……」
　火薬発射式の形状記憶ロープ。それがピッケルザイルの正体であるが、その威力を目の当たりにすれば細かい原理の説明などは不要であろう。
「フッ、まさに十把一からげ、いや三把一からげか」
　ピッケルからロープを切り離した大神は工作員の束に近寄ると、身動きできない彼女たちから槍を没収していった。そして「お前たちはしばらくそこで反省していろ」と言って束を蹴った。
「い、痛っ！」
「イル！大神、やめろッ」
「む、むぎゅう……」
　女工作員の束は大神に蹴られて地面にばたりと倒れ込む。重装小隊の事実上の全滅である。大神は彼女らの指揮官に向かって言った。
「ムカデリラ！今度はお前の番だ」
　大神はピッケルを構えてムカデリラへと迫る。この女怪人さえ倒せばこの一件はひとまず落着するのである。自然と彼の手に力が籠もった。
　だが、この女怪人はまだまだ諦めていない。
　彼女は大駐車場の周囲に向かって叫んだ。
「特別攻撃小隊、出動！」
　すると、その叫びに応じて駐車場の周りの木々の陰からわらわらと女工作員たちが現れた。その数は十を超えている。二個小隊の規模である。
「フン、大神、貴様の相手はこいつらだ」
　扇をかざして戦力を誇示したムカデリラは後ずさり始めた。それに気づいた大神はすかさず追及する。
「おのれムカデリラ、逃げるのか！」
「逃げるのではない！わたしは増援を要請するために本部へと一時的に帰還するだけだ。すぐに戻ってくる！」
　そう言って彼女はこの場を新手に任せて去っていった。前回も同じ手口でムカデリラは部下たちを捨てて逃げていった。ＫＥＤОの女怪人たちは残忍で粗暴だが、そのうえ卑怯でもあるのだ。大神は怪人をなおも追おうとしたが、新手の工作員たちに阻まれてしまう。
「ならば、お前たちを倒すまでだ」
　大神は気を取り直してピッケルを構えた。今は目の前の敵と戦うしかない。
　だが、このとき彼は珍しくも戸惑っていた。この新手の工作員たちはその手に見慣れぬ湯たんぽのような物を持っているのだ。
　湯たんぽを抱えて工作員が突進してくる。
「イルイル！」
　工作員は接近すると、その湯たんぽを大神に押しつけようとしてきた。湯たんぽの高熱で大神を火傷させようという作戦なのか。否、大神には知る由も無かったが、その湯たんぽの正体は高性能地雷なのである。特別攻撃小隊こと彼女らは自爆攻撃を定められた懲罰部隊であった。失敗を犯したり素行不良であったりする者たちが強制的にこの部隊に組み込まれるのである。自らの不始末は死で償え。工作員心得の一つであった。
「何だか知らんが、こんな物はこうだ！」
　賢明にも大神はピッケルの横面で工作員の手を打って湯たんぽを払い落とした。
　その楕円の物体はころころんと転がり落ち、そして爆発する。
「イル！」
　爆発の衝撃で木っ端微塵になる工作員。このとき大神は咄嗟に身を伏せたので奇跡的にも無事であった。
「だが、このままではまずい。奴らと心中する羽目になってしまう」
　立ち上がった大神は一思案し、そしてすぐに叫んだ。
「ピッケルロングバー！」
　するとピッケルがにょきにょきと伸び始めた。まるで孫悟空の如意棒である。この如意棒で遠くから工作員たちを攻撃してその接近を防ごうというのが大神の狙いであった。
　ええい、と叫んで彼は如意棒を振り回す。
「う、うわあ！」
　棒で打たれた工作員が弾き飛ばされ、彼女は地雷を抱えたまま他の工作員にぶつかった。　二つの地雷が破裂する大爆音。勿論、二人とも跡形もなく爆死である。
　しかし、それに怯まず突進してくる他の工作員たち。大神はすぐに棒を突き出したが、今度は図らずも工作員の胸に当たってしまった。ぽよん、という音がしたが、それは空耳である。
「イル？ああ～ん……」
　身を捩じらせて悶える工作員。彼女の手から地雷がこぼれ落ちた。次の瞬間、地雷が炸裂。彼女は訳のわからぬまま散華した。
　こうして五人ほどが爆発四散した。
　だが、相手はもともと十余名なのである。生き残った半数はピッケルロングバーが扱いづらい近距離にまで接近していた。
「イル！大神死ねッ」
　一人が地雷を突き出して向かってくる。大神はピッケルを元の長さに戻すと、彼女の手から地雷を叩き落とそうとした。ただし、このとき大神は力を入れすぎていたようである。ピッケルで打たれた地雷は工作員の手を離れると、ぽーんと高く飛んであらぬ方へと落ちた。
　そこには先ほどピッケルザイルによって簀巻きというか海苔巻きのようにされた槍工作員三人組が転がっている。
「うわっ、味方の地雷よ！」
「イル！早く逃げないと、でも体が……」
「む、むぎゅう……」
　狼狽して体をばたばたとさせる三人組。だが、体を動かせば動かすほど彼女らの体は締めつけられてしまう。逃げられるわけがない。こうして三人はとうとう脱出の機会を得られぬまま、敵味方の区別なく殺傷する地雷の爆発に巻き込まれてしまった。名実ともに重装小隊の最期である。
　さて、そのころ大神は危機に陥っていた。迫り来る地雷工作員たちに気を取られている隙に、地雷を叩き飛ばされて手ぶらになった工作員が後ろから大神に組みついたのだ。羽交い締めにされ身動きの取れない大神。そこへ四方から地雷を抱えた工作員が突進してくる。
「イル、イルイル！」
　勝利を確信する奇声の凱歌。大神、万事休すである。
　しかし、このときもまた大神は敵に一歩先んじた。彼は自分を羽交い締めにする工作員から見事に脱して逆に彼女を投げ飛ばす。そして彼は叫んだ。
「ピッケルホッピング！」
　ピッケルの先端に固いスプリングが自動装着された。大神はピッケルを逆さにして地に立てると、ピッケルの両翼に両足を掛ける。次の瞬間、スプリングのお蔭で彼は天空高く飛んだ。
　そもそもこのピッケルには百八つの機能があるという。その中にはブーメランのように汎用性の高い機能もあるが、一方で何に活用したらよいのかわからない機能もある。ホッピングもそうした奇天烈な機能の一つであったが、今回初めて活用することができたのであった。他にラインマーカーやメジャーとしての機能なども具えているらしいが、大神もまだそれらすべてを把握しているわけではない。謎だらけの武器、それが国連大学工学部謹製のピッケルなのである。
　さて、忽然として標的を失った四人の突撃はどうなったのであろうか。
　大神が空へと去ったのは、四人が大神に体当たりする寸前のことである。それまで残忍な笑みを浮かべて勝利の栄光に酔い痴れていた彼女らは、その最後に一瞬だけ、きょとんとした。そして、その次の瞬間、自分たちがどのような状態にあるのか理解する間もなく、彼女らの胸に抱かれた地雷計四つが爆発した。彼女らは大神抜きで味方同士ぶつかり合うという大失態を演じてしまったのである。
　轟く爆音、吹き飛ぶ砂礫やアスファルト片。そしてゆらゆらと立ち昇るキノコ雲。自爆攻撃は対象物を巻き込んで初めて報われるのであるが、彼女らの場合はただの無駄死にでしかなかった。
　大神は百八つの機能の一つ「ピッケルパラシュート」によってゆっくりと地上に降下しながら、その大爆発を見下ろしていた。
「どうやら終わったみたいだ。でも、それにしては後味の悪い……」
　それから数十秒後、彼はクレーターだらけの駐車場に着地した。

Ⅷ

「あ、大神君、遅かったじゃないですか。いったい何をもたもたしていたんですか。例の薬物はしっかり持ってきてくださったんでしょうね？」
　激しい戦闘を終えて大神が山荘へ戻ると、いらいらした小暮が待っていた。
　生きるか死ぬかの極限を体験した直後にこんな言葉を吐きかけられたら当然、大神だって怒る。このまま「ピッケルナントカ！」と叫んで小暮を血祭りに上げてやってもよいのだが、似たようなことを何度も体験してきた彼はその怒りをぐっと我慢することができた。小暮はあの凄まじさを知らないのである。そして、口で説明してもおそらくは理解できないだろう。かつて中央銀行の件で大神は硫酸の海から銀行頭取を救ったのだが、そのとき頭取はにやにや笑いながら言った。
「大勢の女性たちと『くんずほぐれつ』し放題だなんて、羨ましいご身分ですな」
　所詮、一般人はその程度の認識なのである。無理解と孤独。すでに大神はそれらと折り合いをつけていた。
「小暮博士、これがノートとケドパー液の、」
　そう言いかけて大神がリュックサックからその二つを取り出すと、小暮はノートには目もくれずにケドパー液の缶だけを引ったくった。彼は缶を手にして工作員が監禁されている部屋へと駆け込んでいく。
「メグミさん、ついに来ましたよ。おい、大神君、ロープを早く早く！」
　何だかんだと小暮は大はしゃぎである。大神が後を追って部屋に入ると、小暮は缶を開けてグラスにそのどろどろとした緑色の液体を注いでいた。
「あ、小暮さん、それは水で薄めるんですよ」
「ああ、そうなんですか。カルピスみたいですね。それより早くロープを何とかしてくださいよ。僕じゃあ手も足も出ない」
「小暮さん、あなたロープを解こうとしましたね」
「いやいやいや、ばれてしまいましたか。アッハッハ」
　すっかり上機嫌の小暮は水差しの水をグラスに注ぎ、そして味見をしようとした。大神は驚いてそれを止める。
「小暮さん、あんた死にたいんですか。普通の人間がケドパー液を飲んだらイチコロですよ！」
「ああ、そうなんですか。クリームソーダみたいな色だから、つい」
「つい、じゃないですよ。ったく……」
　そう言いながら大神は工作員メグミのロープを解き始めた。
　ケドパー液がほとんど切れかかっているのだろう。悪の手先はぐったりとしていて身動き一つしない。大神は手早くロープを取り去ると、彼女の頬を叩いた。
「ほら起きろ！」
「イル、イルル……」
　目を開けた工作員は何度も目をこすると、一つ大きな欠伸をした。どうやら単に眠っていただけのようである。そこへ小暮がグラスを盆に載せてやって来た。
「メグミさん、とうとう手に入れましたよ。さあ、早くこれを飲んで元気になってください」
　そう言って彼はグラスを差し出した。その半透明の液体に満たされたグラスを見るなり、女工作員の目が変わった。彼女はグラスを奪い取るようにして手に取ると、ぐびりぐびりとそれを飲み干す。
　目を丸くしてその様子を眺めていた小暮は空になったグラスを受け取ろうと盆を差し出した。そのとき、女が素早く動いて彼に抱きついた。
「うわっ、メグミさん、いきなり何ですか！ここには大神君もいるというの、う、うぐう……」
　抱きついた、というのは小暮の目から見た好意的解釈である。その実態は小暮を人質に取ろうとしたのであった。女工作員はこのときを待っていたのだ。彼女は小暮の首をぎりぎりと絞め上げる。
「大神、早く投降しろ。さもなくばこいつの命は無いぞ！」
「う、めぐ、うぐ、くくくる……」
　盆を取り落とし、腕を伸ばして宙を掻きむしる小暮。
　しかし、大神は慌てず騒がず女工作員を殴り飛ばした。
「イ、イル！」
　殴られて彼女が怯んだ隙に小暮は逃げ出す。女工作員の最後の大博打はこうして呆気なく崩壊したのだった。

Ⅸ

「こいつめ、とんでもない奴だ」
　大神が女を後ろ手にして縛り上げている。その隣では小暮が激しく咳き込んでいた。
「小暮さん、これでよくわかったでしょう。一般市民とこいつらは共存できないんですよ。変な考えは捨てるべきです」
「いや、僕は諦めない。高校の同級生で精神科医をやっている友人がいるから、彼に頼めば……」
「無駄だと思いますがね。もっとも、薬物を駆使して強制的に洗脳すれば別かもしれませんが、それでは奴らとおんなじですよ。いずれにせよ、小暮さんが知っている蜂谷メグミという女性は永遠に戻ってきません」
　女を縛る作業を終えた大神は水差しの水を新しいグラスに注いで飲んだ。この小暮という人はもっと現実と向き合うべきだ、今回は良い薬になっただろう。そう思いながら彼はグラスを置こうとした。
　そのときである。
「小暮さん、危ない！」
　大神はそう叫んで小暮を突き飛ばした。二人はそのまま床に転がる。窓ガラスの割れるがちゃんという音がした。
「イ、イルゥ……」
　女工作員の悲鳴が上がる。
　その悲鳴が気になって起き上がろうとする小暮を押さえつけたまま、大神は立ち上がった。
「現れたな、ムカデリラ！」
　そう言って彼が指した窓の外には紅い女怪人の姿があった。
「ふん、大神め、無事だったか。が、まあいい。裏切り者の処刑ができたからな。勝負は次に預けたぞ」
　ムカデリラは言うだけのことを言うと庭の藪の中に姿を消した。大神がその後を追おうとすると、後ろから小暮の絶叫が聞こえてきた。
「メグミさん、メグミさん、うわあ！」
　彼は後ろ手に縛られてベッドに横たわっている女工作員の体を何度も揺さぶっていた。女の腕には怪人の毒ダーツが深々と刺さっている。女の最期は近かった。

Ⅹ

「これに懲りて奴らもしばらくは静かになるでしょう。でも、ここが危険であることに変わりはありません。すぐに研究所を引き払って他所に移るべきですね」
　大神はそう警告して山荘を去った。緊急時の連絡先を記したメモ一枚を残して。
　メモとともに山荘に残された小暮は一人で片付けを始めた。
　この山荘でたった一人きりになるのは何日ぶりのことだろうか。蜂谷メグミの残骸である砂を保存瓶の中に入れながら小暮は過去のことを思い出した。どれもこれも今となってはあまりに切なすぎる記憶ばかりである。
　割れた窓に鎧戸を下ろし、小暮は悲しみに満ちた部屋を出た。
「そういえば、研究室も……」
　彼は研究室に入った。割れたままの窓ガラス。大神が格闘したときに荒らされた机や椅子。
　悲しみに暮れる一方で、すべてを一人で片付けるのは骨が折れるなあ、などと思いながら研究室を見渡したとき、彼の目はその足元に釘付けとなった。
　黒いベレー帽が一つ、そこに落ちていた。
　それは紛れもなく工作員の制服の一部である。大神のブーメラン攻撃を受けて負傷した工作員メグミをこの部屋から運び出すとき、それはここに落ちたのだった。彼女の肉体とその着衣は燃えてしまったが、どういうわけかベレーだけは残っていたようだ。
　小暮はそのベレーを拾い上げた。今日一日の出来事。考えようによってはあまりに馬鹿馬鹿しい出来事。もしかしたらすべてが嘘かもしれない出来事。一般市民である小暮には素直に信じられないような出来事であったが、それは確実に存在していたのだ。このベレーがすべての証人である。
　他にすることもあるだろうが、彼は何となくベレーの匂いを嗅いでみた。蜂谷メグミが愛用していた洗髪料の匂いがかすかに残っているような気がする。
　その日の晩、小暮は大神の残したメモを片手に電話をかけた。
「もしもし、大神君？ああ、そうです。僕です。小暮です。こんばんは。いや、そうではありません。違う件です。実は僕もあの悪の組織との戦いに参加したいと思うのです。奴らはこの国の平和を乱す悪魔の使者です。僕はこの国の将来を真剣に心配しています。ええ、そうです。勿論ですよ。敵の一味を捕らえてデータを収集し、それに基づいてメグミさんを再生しようなどというけしからぬ考えは抱いていません。はい、そうです。はい。僕は純粋に大神君のご尊父の仇討ちに協力したいだけなんです。邪な考えは一切持っておりません。そうです。はい。ええ、わかりました。明日の午後六時、駅前ですね。わかりました。必ずお伺いします……」
　このとき、小暮には新たな目標、あるいは「生きがい」とでも呼ぶべきものがはっきりと生まれていた。それは他人から見れば「重い病気に罹っている」という状態なのかもしれない。
　しかし、小暮本人がこの状態を幸せだと感じているのは事実なのである。それは誰にも邪魔はできないはずだった。常識とか世論、あるいは恐るべき力を持っている悪の組織といえども、である。
　青年小暮の戦いは今始まったばかりであった。

次回予告

　小暮博士はついにケドパー液の量産に成功した。博士はその生体実験を行うため、大神に工作員の拉致を依頼する。思いがけないその依頼に困惑する大神。しかし、小暮が昼食代として差し出した封筒の中には百万円の札束が入っているのだった……。

博士の過剰な愛情 また彼はいかにして女戦闘員を愛するのをやめて心配するふりをするようになったのか

前回までのあらすじ

Ⅰ

Ⅱ

Ⅲ

Ⅳ

Ⅴ

Ⅵ

Ⅶ

Ⅷ

Ⅸ

Ⅹ

次回予告

博士の過剰な愛情
また彼はいかにして女戦闘員を愛するのをやめて心配するふりをするようになったのか